「第26回全国中学生人権作文コンテスト」香川県大会 最優秀賞作品
主催:高松法務局・香川県人権擁護委員連合会
共催:四国新聞社
応募:県内51校、6,278編
四国新聞社賞

 
「ぼくの身近な人権問題」
                                            土庄中2年 男子

 人権について、今までいろいろなことを学んできた。小学生の時は人権集会で劇を発表したこともある。道徳や学活の時間にいじめや差別の話に出会うたびに、そんなこと絶対にだめだ、許さない‥‥と考えてきた。ぼくは、もしだれかに「いじめや差別をしたことがありますか?」と尋ねられたら、きっぱりと「いいえ」と答えただろう。「人権を侵したことなどない!」と、自信をもっていた。
 ところが最近、ぼくはどうやら人権を無視した発言をあちこちでしていることに気づいた。
 まず、友達に対して。普段話をしていても、会話のあちこちでつい嫌な言葉がでてしまう。「ば〜か」「あほ!」「きしょっ!」こんな言葉が何気なくどんどんでてきてしまうのだ。ちょっと言い過ぎかな?と、たまに思ったこともあったが、でも、これくらいみんな言ってるし‥‥おれだけじゃない、と、あまり気にしていなかった。
 次に、家族に対して。最近は反抗期かもしれないが、家族にいろいろ言われると、腹が立ってイライラしてくる。父や母にはまだましだが、祖父母に対して、特に言葉が荒くなる。「うるさい、だまれ‥‥!」はまだいいが、そのうちもっとひどくなる。「ばあちゃんはデブのくせに!」とか、「じいちゃんは変態や!」とか‥‥。妹にも「ばか、ぶさいく、とんちんかん!」などと、どんどん言葉がエスカレートしていく。「やめて!」と言われればますますおもしろがって言い続ける自分がいた。最初は祖父母や妹の悲しそうな顔にちょっぴり胸が痛んだが、どんなにみんなが怒っても、ぼくにはちっとも怖くなかったし、そのうちなんだか「ぼくの方が強い」という変な優越感が生まれ、言いたい放題言って相手の怒ったり悲しんだりする顔を見ることが、一種の快感にさえなっていた。ぼくの中でこんなことは日常茶飯事となり、罪悪感のかけらさえなくなってきていた。
 だが、ある日とうとう、母が激怒した。
「いいかげんにしなさい!人の嫌がることばかり言うて‥‥。あんた、最近、何考えとん?いったい、どういうつもり?あんたのこと、こんなに心配してくれようじいちゃんやばあちゃんにひどうこと言うて‥‥。みんなに当たり散らして‥‥。あんたが最近しよることは弱いものいじめと同じやで。そんな嫌なこと言われて、言われた人はどんな気持ちやと思う?人権無視にもほどがある。人権についてちゃんと考えたことあるんか?」と。
 えっ?弱いものいじめ?人権無視?さすがのぼくも、考えさせられた。「ぼくは人権を侵したことなどない」という自信たっぷりの言葉は、うそだというのか?
 今まで、人権問題とは、人種差別・男女差別・障害者差別のように大きなものだと思っていた。自分とは少し離れたところにあるものだと感じていた。まさか、ぼく自身というこんな至近距離に、そんな問題があるなんて思いもしなかった。ぼくのしていることが、差別やいじめと同類だなんて、今でも信じたくないが‥‥でも、そう言われると、これはりっぱな人権侵害なんだと気がついた。
 そういう視点で学校生活を振り返ってみると、あちらこちらに「人権問題」が転がっている。だれも気づかず(いや、中には気づいている人もいるかもしれないが)だれもその問題を拾い上げようともせず、日常と化している現実。傷ついても平気なふりをしてごまかしの笑顔でその場を流していく自分たち。傷つけても相手の痛みを感じない、心のマヒした自分たち。自分より「弱い」人を見つけ合い安心しているのだ。「これくらい大丈夫、おれだけじゃない、みんなやってるし‥‥」という言い訳を隠れみのにし、人権を大切にしていないぼくと同じような人がたくさんいる。相手の身体的なことに関わる言葉や、根も葉もない中傷的な言葉も耳にするが、それはまちがいなくいじめや差別の表れだ。でも、それおwなんとなく許している自分たちがいる。言葉は、時には刃物のように相手の心を傷つけ、えぐる恐ろしい凶器にもなりうるのに。
 そして、なによりも恐ろしいのは、それが意識されず、日常になりつつあることだ。差別するものが自分の差別心に気づかず、自然体で差別するなんて‥‥。そんなことでは、この世から差別やいじめは決してなくならないだろう。一人ひとりが、まず、しっかりと自分の中の「醜い心」と向き合えるよう、意識改革をしなければ、何も解決しないのだ。
 ぼくは今、やっと目が覚めた。人権問題は、遠い遠い他人事ではなく、ぼくの心やみんなの心の中に潜んでいる身近な問題なのだ。だから、今度こそ、本気で考えなくてはならない。人権について‥‥全ての人が気持ちよく暮らしていける世の中について‥‥。みんなと一緒に、今度こそ本気で‥‥。
  
香川県人権擁護委員連合会長賞

 「障害者の方から学んだこと」
                                          土庄中 1年女子
 「バリアフリー」とか「障害者とともに」などという言葉を新聞やテレビでよく目にします。でもよく考えてみると、現在の社会は障害者の方やお年寄りの方への関心がうすいように思うのです。
 小学生の頃、私は授業を通して障害者について学ぶ機会がありました。「ひまわりの家」という障害者施設に見学に行き、たくさんの交流をしました。そこでは、障害者の方々といっしょにゲームをしたり、二人組になって似顔絵を描いたり、清掃をいっしょにしてりと活動を共にしました。
 「ひまわりの家」にクラスみんなで行くことが決まってからは、何日もかけてたくさん準備をしました。どうすれば「ひまわりの家」の方々に喜んでもらえるのか、どうすれば私たちといっしょに楽しく過ごすことができるのか、みんないっしょうけんめい考え、意見を出し合いながら準備を進めていきました。今、ふと思い出したのですが、その頃の担任の先生が、
「かわいそうっていう言葉はどう思う?」
と私たちに投げかけ、よく考えました。私は「かわいそう」という言葉は相手のことを考えているいい言葉に聞こえる時もあるかもしれないけど、障害者の方に対して使う言葉としては、適切でないと思いました。もう一つ私が感じたことは、「‥‥してあげる」という言葉です。私も初めは、障害者の方が困っていたら手伝ってあげたいというふうに思っていたけど、その、「‥‥してあげる」という言葉は適切ではないなと思いました。「かわいそう」という言葉も「‥‥してあげる」という言葉も、相手と同じ目線でなく、相手より高いところから見ているような気がしました。ちょっとした言葉が相手の気持ちをいやな気持ちにしてしまうこともあるんだと思いました。障害者の方々が困っている時、手伝ってほしいと求めている時、自然にいっしょにやってみるという意識が大切なんだと分かりました。
 そしていよいよ、「ひまわりの家」に行く当日、みんな「緊張するな
‥‥」と言っていました。私も、(どうやって接したらいいんだろう。)と少し不安だったので、お母さんに聞いてみると、
「いつもクラスの友達と接しているように、普段通りでいいと思うよ。」
と言ってくれました。
 「ひまわりの家」に着いたらすぐ障害者の方々がにこにことした笑顔で出迎えてくれて、積極的に話しかけてくれたりして、私の緊張や不安がすぐに消えました。
 まず、私たちは、ダンスを見てもらいました。みんなが拍手をしてくれて楽しそうに見てくれている様子でした。次に二人組になって似顔絵を描きました。楽しそうに描いている人もいたけど、思うように描けず、泣き出す人もいて、私は、この計画は、よかったのかなぁと複雑な気持ちになりました。でも、いっしょうけんめい描いてくれて、帰りにその絵をそれぞれプレゼントしてくれた時には、とても感動してうれしかったです。その時にいただいた絵は、今でも大切に持っています。
 最後にみんなで清掃しました。みんなすみずみまでいっしょうけんめい清掃をしている様子を見て私たちは、すごいなぁと思いました。私たちも清掃をいつもよりがんばったことを覚えています。
 「ひまわりの家」の方々とはその他にも、交流の機会がありました。私たちの地域の運動会には、毎年必ず参加してくださって、いっしょにつな引きや、玉入れをしました。みんなで力を合わせてがんばれたことは、とてもいい思い出になっています。
 「ひまわりの家」の方々とのふれあいを通して、私が一番感じたこと、それは、みんなとても明るくて、すばらしい笑顔であるということ、どんなこともあきらめず前向きにいっしょうけんめいであるということです。人として一番大切なことだと思いました。障害者の方々から大切なことを教えてもらったように思います。「ひまわりの家」の方々との交流は、私にとって、とても貴重な体験となりました。
 障害がある、なしにかかわらず、日本中、世界中の人々がそれぞれお互いを思いやる優しい心を持ち、前向きにいっしょうけんめいに生きる姿こそすばらしいと思います。そして、そういう社会はきっと私たち一人一人が望んでいる社会だと思います。